仏法は心の鏡 うつしてみよう 私の姿を!
私たちは『自分のことは自分がよく分かっている』等と口にすることがありますが、ホントのところどうなのでしょう? 案外と分かっているようで分かっていないのが 私たちなのではないでしょうか。
それを証拠にこんなこと思い当たりませんか。他人の悪いことはよく見えるが、自分の悪いところには なかなか気づけない、気づいても認めたくない なんてこと。
他人のうわさ話は延々と続けられますが、ほめ言葉となるとほんのわずかで終わってしまいます。それほどに他人のことが気になるのがお互いですね。それも たいていは悪いことが気にかかり、よいことでも悪く変えてしまうという いらぬ能力を持っています。
そのくせ自分自身のことになれば、ちょっとの批難に対してでも懸命に弁解につとめます。こういったことをよくよく考えていくと、人間とは自分のことが何もわからない存在なのかもしれません。
さて、親鸞聖人はご自身のことを「愚禿(ぐとく)」と名のられており、『愚禿が心は 内は愚にして外は賢なり』といわれています。外見はいかに賢そうにみせているが、中身は愚かそのものだとおっしゃるのです。そのように言われるのは、仏法に出遇い仏法を聞いたからでありましょう。
様々な世間事に振り回され頭を悩ませ、腹を立ていかり、ニッチモサッチモいかないことが時折ありますが、お念仏の声を聞いていたら、いつの間にか心が静まり恥ずかしい気持ちと、そしてちょっぴり嬉しさと有難さを感じる私です。
『仏法は心の鏡 うつしてみよう 私の姿を!』
み教えをいただいて、お互いに自分の本当の姿に気づかせていただきましょう。