海は広いな 大きいな すべてを抱くその海は まるで母のよう

ある穏やかな昼下がり、錦江湾を眺めていると、ふと海の広大さと懐の深さに祖母を思い出す時がありました。

海というのは、すべての川の水を迎え入れます。
きれいな水は きれいなまま 泥水は泥水のまま、
どんな水でも同じように海に流れ込んでいきます。そして海に流れ込んだら、すべての川の水は等しく同じ海の水になります。

親鸞聖人は「海」という言葉を著述の中で非常に多く使われておりまして、主著『教行信証』には何と七十回以上も出てまいります。
親鸞聖人の「海」のお味わいには大きく分けて二種類、
一つは本願海、大心海、功徳宝海など、海を阿弥陀さまのはたらきに譬えたもので、
もう一つは、生死の苦海、無明海など衆生の世界に譬えられたものです。

しかし、親鸞聖人のお味わいの上で最も大切なことは「海」を転成という はたらきをもつものとして考えられたことです。 転成とは転じ変え成すという意味です。
『お正信偈』の一節に「如衆水入海一味」、すなわち「衆水、海に入りて一味となるがごとし」と。またご和讃にも

尽十方無碍光の
大悲大願の海水に
煩悩の衆流 帰しぬれば
智慧のうしほに一味なり

とあります。すべての川の水は異なった味ですが、海に流れ込むと潮の味に転成して
一味となっていく、それが海のはたらきであります。

それと同じように、思い煩い悩みの中に生きる煩悩の海を転じ変え成すものは、まさしく阿弥陀さまのご本願の大海であると親鸞聖人は讃えられたのでしょう。

そういえば「海」という漢字には「母」という字が含まれています。
すべてを受けとめてくれる懐の深さは まるで母のよう
すべてを迎え入れ、すべてを抱くその広大さは 親である阿弥陀さまのよう

穏やかな海を見ていたら、ふと やさしかった亡き祖母を思い出すと共に 阿弥陀さまのお心をお味わいさせていただきました。

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