北海道教区 本願寺 函館別院 吉村 教史 師
自分の思いを他に伝えるということ、また、他人の気持ちを理解するということは、簡単なことではありません。しかし人間は、そのことが最も尊くかけがえのないということに気付いたからこそ、何とか自分の気持ちをわかってもらおう、他人の思いを理解しようとしました。
「心」を伝える表現として言葉を使い、文字を創って、より一層「思いやり」や「いたわり」を大切にしてきたのが人間であると、私は思います。
言葉や文字がなければ、尊いみ教えも私たちは戴けておりませんでした。
ところが、今日の私たちは如何でしょうか。その手段だけは、びっくりするほど立派に整いました。電話が一家に一台から、一人一台の携帯電話が当たり前になり、インターネットで、知りたい情報がほとんど手に入る時代になりました。言葉や文字が情報交換の手段としてだけに存在するのなら、最高の時代と言えるでしょう。
しかしながら同じ屋根の下に暮らしていながら一つの会話もなく、用事はすべてメールでという家族関係が急増中ということを耳にしました。親子の会話は決して情報交換の為だけではないはずです。
また先生と生徒の関係についても、勉強を教える側、教えられる側の情報交換だけではありません。
最近のニュースを見ておりますと、身近な関係での事件が非常に目に留まります。特に家庭内や学校内での、よく知った者同士の事件。他人には理解しがたい何かがあるのでしょうが、「心」を通わすことの大切さを知らされます。
これだけ充分すぎるほど伝達の手段は整ったのに、どこかに心を置き忘れているように思えてなりません。
どんなに私たちの生活が便利になったとしても、人間の「心」のつながりに勝るものはありません。
その「心」を育てて戴くのが“真(まこと)の”宗教であり、お寺であります。
家庭や学校で改めて時間を割いて教え教わるのではなく、ごく自然な生活の中で嬉しいことを嬉しいと感じられること、有り難いことを当たり前、当然とやり過ごすのではなく、喜びにかんじられること。
これに気付かせて戴けるのは、“真”に遇ってのことです。
この度、ホームページ開設にあたり、法話のご縁を戴きましたこと誠に感謝いたしております。
正心寺様の寺号で戴かれております通り、「心」をお育て戴ける、尊いご聴聞の道場として、島見ご住職と共に正心寺様の益々の御法義繁盛を念じております。
私も、北の大地で法燈を身心一杯に戴きながら精進してまいります。
吉村 教史