人生 長きがゆえに 尊からず
人生 深きがゆえに 尊し
世間一般的には人生が長いほうがより価値があるように言われたりしますが、いのちというものが単に抽象的に長さだけで考えられてはならないでしょう。真に人間のいのちならば、長さのみならず幅もあれば深さもあるはずです。
年齢を重ねれば、それだけ人生をよりよく見、経験するわけですから、それだけものわかりがいいはずなのに、反対に我が強くなり柔軟心に欠け、思い通りにならないと人生を嘆き、時には怒りなんてことが無きにしもあらず・・・・・
やはり人は、いのちを空しく長さだけに生きるのではなく、いのちを深さにおいて生きることが大切なのではないでしょうか。
仏法に出遇うということは、私が本当の私にであうことでもあります。人間であるありのままの私の相に、ときには人間であるがゆえの悲しさに 愚かさに 空しさに・・・・・
親鸞聖人は仏を仰ぎ、無量寿のいのちを限りなく深く生き抜かれたお方と言えましょう。
『ひそかにおもんみれば』という言葉から始まる【教行信証】には
『広大な仏の誓いは、生きがたく渡りがたい海を渡してくださる大きな船であると、何ものにもさえられず一切を照破する仏の光明は一切の煩悩、迷いの根本である無明の闇を照破する智慧の日光である』と述べられました。
仏法に出遇い、智慧の光明に照らされる私に出遇っていきながら、このかけがえのない人生を深く深く大事に生きていきたいものです。そのいのちの深みにおいて豊かに広がる人生があるのではないかと思います。