先代住職である祖父の言葉をふと思い出しました。
『朝、目が覚めて鳥の鳴き声を聞くと
今日も いのちいただいたなぁ
有り難かな 不思議じゃなと思う』と。
その頃私は20代前半であったせいか、意味は分かりますが、もうひとつピンとこないというか、そこまで感じ味わうことができませんでした。今少し年を重ね、今ほんの少しだけ その言葉の深さに気づかされます。
東井義雄先生という方がこんな詩を遺されております。
「目がさめてみたら・・・」
目がさめてみたら
生きていた
死なずに
生きていた
生きるための
一切の努力を投げ捨てて
眠りこけている私であったのに
目がさめてみたら
生きていた
劫初以来
一度もなかった
まっさらな朝のど真ん中に
生きていた
いや
生かされていた
眠っている時には、すべてを投げ捨てて眠っています。自分の心臓ながら自分で動かしているわけでもない。肺を自分で動かしているわけでもない。眠っている時は特におまかせです。しかし、目がさめてみたらまっさらな朝のど真ん中。まさしく生きているのではなく生かされてあることに気づかされます。
さて、先日病院にて健康診断を受診しましたが、その中には心電図の検査がありました。検査中、機器の画面を見ていると針が小刻みに動いたり上下に大きく揺れたりする様子が分かります。その時に、私の心臓は不思議だな、お願いもしていないのに一生懸命に働いてこの私を生かそうとしているのだなと感じる瞬間がありました。自分で自分を動かしているわけではなく、心臓も、肺も、胃も、腸も、肝臓も、すべてがすべて一生懸命に働いている。活動してくださっている。もう、頭が下がるばかり。思わず手が合わさります。ふと、お念仏がこぼれます。「大いなるいのち」によって支えられていることに気づかせていただく。いのちに目覚めるということは、こういうことかもしれません。
今少しだけ、祖父の言葉が分かるような気がいたします。