東日本大震災の発生からから5年が経ちました。5年という月日は区切りでも何でもなく、震災の爪痕は想像以上に深く、家族や故郷での暮らしを失った悲しみは癒えないままでありましょう。亡くなられた方や行方不明者は2万人を超え、避難者が未だ17万人以上いることは涙なくては語れない事実です。
私共鹿児島教区雅友会では東日本大震災後、毎年東北へボランティアに行っておりますが、今年は宮城と福島を訪れました。初日は宮城から福島へ。仙台空港に降り立ち福島へ向かう途中、まず目に入ってくるのが、道路沿いの田畑のいたるところに山積みされている放射性廃棄物のフレキシブルコンテナバック。あくまでも中間的な仮置き場なのでしょうが、行き場のない黒い物体の存在感は、大変大きく重いものでした。
その後、本願寺の福島県復興支援宗務事務所にて、福島県の寺院やご門徒の現状をお話しいただき、寺院再建への補償問題やご門徒の管理とケアなど、困難な壁があることを痛感しました。
2日目の午前中はいわき市の「いわきの初期被曝を追及するママの会」の方に、放射線に対する不安や懸念する生の声、いわゆる本音中の本音を聞かせていただきました。ママ達のネットワークを活用し国や市、行政に働きかける行動力には学ぶところが多々ありました。「安心」と「安全」は違う、まさにその通りでした。
午後からは、福島原子力発電所の近くを視察。原発近くの国道6号線の家々や店舗の入り口にはすべて金属製バリケートが張り巡らされて、異様ともいえる光景にショックが大きいでした。放射線を図る機器を車の中で計測すると、車内でありながら近隣になると異常な数値が計測され、ただただ驚くばかり。こんな状況の中、原発付近で働く人々が一日に何千人もいるということでした。
3日目の午前中は、美田園第一仮設住宅にて、雅楽の演奏会を開催。仮設住宅は簡素に作られた、あくまでも仮設的、住宅環境がいいとはとても言えず、皆さんのご苦労が想像できました。演奏会後の茶話会では住民とお茶を飲みながら様々な話をさせていただきました。70代のある男性が私に『私には帰る場所がない。あなたたちが来てくれるだけで嬉しい。こうしていろんな人たちと話ができるだけで・・・』と涙ながらに話されました。帰る時には私の手を握りながら『また来てね、また来てね』と言われる姿が印象的でした。ただ、皆さん明るいなとも感じました。深い悲しみを負った人たちは、笑うということも大事にしているのではないだろうかと思いました。悲しみを抱きながらも笑顔を絶やさずに、前を向いて進むしかない、生きていこうとする姿勢に力強ささえ感じたことでした。
午後からは、本願寺仙台別院にて追悼法要が勤修され、全国より有志の讃嘆衆が集まり出勤いたしました。この地で追悼のお参りができたことを大変ありがたく思いながら、法要後空路鹿児島へ戻ったことでした。
あれから5年、現地に赴いてみますと、報道メディア等では伝わりにくい厳しい現状がそこにはありました。道路や鉄道、港湾といったインフラの復旧は着々と進んでいますが、復興支援が行き届いていない箇所も多くあり、地域差も現れているようでした。しかし何といっても必要なのは、人への支援です。財政的な面も勿論必要でしょうが、もっと必要なのは心への支援です。被災された方々の心の痛みをケアしていくことが何よりも欠かせません。震災はまだまだ現在進行形、決して風化させてはいけません。東北に思いを寄せ、被災者に寄り添う姿勢と行動こそ大切でありましょう。そんな誓いを新たにしたことでした。